【チェコ記2】20170315(水)チェコの強制収容所の街 テレジンへ

ナードラジーホレショヴィツェ駅から出るバスにのり、プラハから一時間ほどでテレジンという街へ向かう。dav

バスを降りるとすぐに川があり、この川をはさんで大要塞と小要塞と呼ばれるそれぞれの地区に分かれている。
テレジン要塞は、1780年代のオーストリア、プロイセン間の戦いで防衛のために建設された。その後も小要塞は重要な駐屯地であり、19世紀初頭からは政治犯を投獄する監獄としての役割も担っていた。そしてその後、第二次世界対戦時にチェコがナチスドイツに占領された後にユダヤ人ゲットー収容所としての街に姿を変えさせられていった。

橋をわたった先、ものものしいトンネルをくぐった先に大要塞が見える。
dav

ここがテレジン大要塞。強制収容所=アウシュヴィッツのイメージでいくと、やや拍子抜けするくらい普通の街に見える。
この街は第二次大戦時にナチスドイツに占領され、強制収容所が設立された場所。戦局が進むにつれ、元々すんでいた住民は追い出され、街全体がユダヤ人ゲットーの街とされるようになった。ここにはガス室こそなかったものの、他の収容所にうつされる前の中継地点として、あるいは選別して殺害するため、そしてナチスドイツがユダヤ人自治移住地を設立しているという見せかけの宣伝材料としての機能を果たす場となった。

dav

dav

dav

dav

実情はひどいもので、移送中の死亡者も多く、特に戦争後期には収容所には多くの人がすし詰め状態にされ、病気も蔓延した。町全体を収容所として機能させるため、元々の住民は追い出され、移住を余儀なくされた。他の収容所から重病患者や衰弱死寸前の囚人が運び込まれることも多く、チフスも持ち込まれ戦後も多数の犠牲者が出た。

ここから下は小要塞のようす。入り口には慰霊碑がならぶ。

dav

dav

ベッドは、番号の通り、ここに縦に並んで寝ていたという。

dav

これは水しか出ないシャワーで、洗うためではなく罰を与えるために使われていたもの。
dav

赤十字社の視察に向けて整備された見せかけの洗面所。しかし実際に使用されることはなかった。
dav
 
大要塞の中の、以前は男子寮として使われていた建物が現在は博物館になっている。

街のなか、寮のなか、厳しい管理体制をしかれるなかでもこっそりと、屋根裏部屋などで演劇を上演したり子供たちに絵や勉強を教えた先生がいた。音楽家、演劇人、教師、スポーツ選手など、多方面に才のある人たちが押し込められたこの場所で、表現活動を続けたり、子供たちになにかを伝えようとしたのだった。文化は収容者にとっての希望の光であり支えだったようにみえる。

男子寮のなかで、13~6歳くらいの男の子達が約1年半、毎週(!)こっそり発行していた雑誌「VEDEM」。全800ページにも及んだその内容は多岐にわたり、寮のなかでの出来事を面白おかしく書いたり、政治的批判を含めた社説を書いたり、テレジンへ移送された経緯のルポ、スポーツイベントのルポ、世界の偉人たちの紹介、悲痛な叫びを含む詩…。挿絵もある。知識も才能も情熱もあった少年たちが一人一人自分の言葉で書いたものから、彼らの生活状況や心情を垣間見ることができ、そしてこれを発行することが心の拠り所やはけ口になってもいたのだということをもつよく感じる。

dav

街の中で行われていた演劇、コンサート、スポーツなどのイベントポスター。理不尽に集められた人々が、何かを表し、そして伝えようとした痕跡がそこかしこに残されているのだった。
dav

収容者が残した絵。
dav

秘密裏に絵画教室を開いていた先生の存在があったおかげで、子どもたちの描いた絵はたくさん残されたが、多くの子どもたちは亡くなった。
彼らの描く絵は、極めてシンプルで。目の前の景色や、かつて見ていた景色、すぐそこにあるもの、全てを上手く描こうとなんてしていない。ただ手を動かすことが楽しい、あるいは目の前のものをただ描いている、楽しかった日々を思い返している、希望を探している、あるいは絶望しか見えない。そんな視点のようにみえた。

dav

dav

テレジンという街の存在は、恥ずかしながら前回チェコを訪れた時に初めて知った。世界にはアウシュヴィッツ以外の強制収容所が本当にたくさんあることはなんとなく知りつつも、ここのことはチェコに来なかったら知らないままだったかもしれない。

前回チェコに来た時には、とにかくポーランドまで足を伸ばしてアウシュヴィッツだけは行ってこようと決めていた。そして見た果てしない絶望的な景色に愕然として、ショックを受けつつもまたすぐにお腹は空くし、夜は暖かいベッドでぐっすり眠ったわけで。私の想像力はいつだって乏しいなと思いながら、生活のなかでふとしたときにその風景を思い出して、ほんの少しだけまた想像しようとする。そのとき「償い」のような気持ちが心をよぎるのは何故なのだろう、本当におこがましい。単に想像してるふりをしてるだけなのかもしれない。

アウシュヴィッツは最終到達地点であった人も多く、彼らが持ち込んだ限られた荷物や衣服や髪の毛などがあった展示室を見たとき、あまりにも膨大であったそれは、もう一人一人のものではなく、「回収物」として私は見てしまっていた気がする。テレジンを訪れた今回も、確か夜はビールを飲んだし、あたたかいベッドでぐっすり眠った。ただテレジンという小さな街に詰め込まれた人々が必死に残したものたち、それらの息遣いを感じ取りたかった。だから行ったのだと思うけれど、私は感じ取れていたのだろうか?せめてまた彼らの残した言葉を読み返して、すぐ忘れてしまう乏しい記憶力と想像力を補おうとしているのだろう。今の私たちの生活がこの時代に通じている。そんな気配すら、また日常の中では忘れてしまいそうになるのだった。

この本、おすすめです。
61WRJFH3QNL
林幸子著「テレジンの子どもたちから-ナチスに隠れて出された雑誌「VEDEM」より」